【第12回】敵将の短慮につけいる
▽ ごあいさつ 

 皆様、こんにちわ。日本兵法研究会会長の家村です。 

 以前の記事(第5回掲載文)で、『太平記』に出てくる「数十万」や「百万」余騎といった現実にはありえないような軍勢の兵数について、その目的が「異国に誇張した兵数の情報を流す」ことにあったと述べました。 

 千早城を包囲した鎌倉幕府の軍勢につきましても、『太平記』では、「当初の軍勢が八十万騎であったところに、赤坂を攻めていた軍勢や吉野を攻めていた軍勢が駆けつけて加わり、百万騎を超えた」と記してあります。このことについて、『太平記秘伝理尽鈔』では以下のように解説しています。 

  

 東山・東海二十三箇国の兵八万余騎、北国・山陰・山陽・西海・南海の軍勢十万三千余騎(合計すれば、十八万三千余騎)というのが、六波羅に到着する前の兵数である。それを八十万騎などと恐ろしく『太平記』に書いたのであった。 

 (巻第六 関東の大勢上洛の事) 

 諸国の軍勢は二十四万六千余騎であったと古い書物に記されている。それに対して昨今では百万と云われているのは、東国の軍勢一を以て七(七倍)とし、西国の軍勢一を以て三(三倍)として記述していることになる。これらは以前に論評したとおりである。 

 (巻第七 千剣破城軍の事) 

  

 つまり、『理尽鈔』によれば、千早城を囲んだ幕府軍は「当初の軍勢が18万3千余騎であったところに、赤坂を攻めていた軍勢や吉野を攻めていた軍勢が駆けつけて加わり、24万6千を超えた」ということになります。 

 それでは、本題に入りましょう。今回は、前回の「千早城外での夜討ち」の続編です。 

  

【第12回】 敵将の短慮につけいる 

 (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より) 

  

▽ 夜討ちで敵の軍旗を奪い取る 

 千早城を水攻めにしようとした名越の軍勢を夜討ちにより撃退した楠木軍は、混乱に紛れて名越の旗や大幕などを奪って、整然と城内に引き上げた。そして翌日、城壁に三本唐笠の紋(名越氏の家紋)が描かれた旗と大幕を広げて見せつけながら、叫んだ。 

 「これらの物は皆、名越殿から頂いた御旗ですぞ。ところが、御紋が入っているので他の者には役に立ちませぬ。そちらの陣の方々、こちらに来られて、お持ち帰りくだされぬか」 

 そして、声をそろえてドッと笑った。これを見た幕府軍の武士たちは、「ああ、これは名越殿の大失態であるな」と口々にせぬ者は無かった。名越家の人々は、この事を聞いて憤慨し、 

 「我等が軍勢どもは一人残さず、城の木戸を枕に討ち死にせよ」 

 と命じた。これにより、名越の軍勢5千余人は、決死の覚悟で討たれても、射られてもひるまずに、屍(かばね)を乗り越え乗り越え、城の逆茂木の一段目を破壊して、城の崖下まで攻め込んだ。しかし、そこには崖が高く切り立っていたので、くやしいが登ることもできず、なすすべもなく、ただ城を睨(にら)みつけるばかりで、怒りを抑えて荒れた息を静めていた。 

 その時、楠木の城兵が、崖の上に横にして積み置いた大木十本ほどを繋いだ綱を切った。大木は急激に転がり落ちて、寄手の兵士ら4、5百人ほどが将棋倒しになり、圧死した。これを避けようとして慌てふためき、騒いでいるところに、四方八方の櫓から狙い定めて、ここぞとばかりに矢を射かけてきた。5千余人の兵士らは残り少なくなるまで討たれ、戦いは終わった。 

  

▽ 夜討ちの日、正成は論功行賞 

   夜討ちから帰ったその日、千早城では音もせず、城内が静まりかえっていた。それは、楠木が城に帰ってから時を移さずに、各人の高名(=活躍ぶり)などをその将に述べさせて、少しでも人より勝れた功績があった者は、これに賞し、相応の引き出物などを与えていたのであった。 

 夜討ちに参加した城兵たちを前に、楠木は次のように語った。 

 「いつも申しておるように、各々の人に勝れる高名は、実にあっぱれであった。そうでありながらも、このことは各々の高名だけではない。諸卒の誰もが命を惜しまず、敵陣に攻め込んで行ったことによるのである。そうであれば、手柄をあげた六十九人の高名は、総じては三百人の高名、別しては六十九人の高名である。三百人の高名は、三人の将(湯浅六郎、北辻玄蕃、楠木三郎)の心構えがしっかりしていたからだ。」 

 こう云って、一番に大将を呼び出して、白銀三十両を各々に与えた。次に六十九人を呼び出して、諸人から高名の次第を問い、本人にも語らせて、これを賞賛して、身分に随って白銀並びに銭貨を与えた。また、蔵の中から木綿布・綿などを取り出して、裏表に綿を添えて与えたのであった。 

 こうして日も漸(ようや)く傾いてきた。 

  

▽ すぐには名越の旗・幕を掲げなかった楠木 

 このように表彰していると、北辻玄蕃が正成に申した。 

 「なにゆえ、今朝取ってきた名越の旗・幕を敵に見せて、笑いものにしないのでしょうか。」 

 北辻がこのように問うと、正成は次のように答えたのであった。 

 「よくぞ言ってくれた。私も忘れていたのではない。今朝の寄手の騒ぎは、上を下にと大混乱に陥っている。この時に名越の旗を城中に掲げて笑ったとしても、敵は動転している最中であれば、見つける人も在りはしなかっただろう。 

 また、万が一にも寄手が誤って、『名越殿の軍勢だけが城中へ入って、楠木と戦っている』、などと一人が言い出したならば、事の由を知らない人は、そうかと思うであろう。そして、数万の敵軍が競いながら、城へ雲霞のごとく攻め上ることになり、この軍勢は鬼神のごとく行動するだろう。そうなれば、城の守備も危うくなるものと予想されたので、これを思い留まっていたのである。 

 明日になれば、寄手の諸卒も事情をよくよく聞き及んでいるだろうから、早々にあの旗を出して笑おうではないか。その時、敵が攻め寄せて来るならば、また敵を打ち倒す作戦が必要になるだろう。」 

 こう云って、終夜(よもすがら)崖の上に大木を横たえ、石弓をはり直させるなどして、敵人に大損害を与えたのである。実に優れた謀であるものだ。 

  

▽ 楠木の挑発に乗った名越の短慮 

 楠木勢が名越の旗・幕を城壁に立てて笑ったのを聞いて、名越一家の大将らが大いに怒って、「我が軍勢は一人も残らず城を枕にして討死せよ」と下知したのは、短慮(=思慮が足りないこと)である。 

 先立って諸国七道の軍勢どもが、数日間攻めてさえも落ちなかった城を、名越一家がこれに代わる手立て(=作戦)も無く攻めたところでどうして落ちることがあろうか。その上、「良将は落とすことができる手立てを見つけ出さなければ、城を攻めることはない」とさえ云われる。たとい百万騎の勢で攻めたとしても、今のような状態で謀(はかりごと)も無く攻めるならば、この城が落ちることは絶対にないのだ。 

 それにもかかわらず、楠木には、寄手に腹を立てさせ、城を攻めさせたところを討とう、という企みがあったのを、笑われ、腹の立つままに攻めたのは、十分な配慮に欠けている将だということである。 

  

▽ 腹を立てるのは愚人の為すところ 

 どんな場合にも、賢い人は腹を立て、怒ることがない。腹を立てるのは、愚人の為すところである。 

 なぜかと云えば、人が無道をすれば、我はそれに与しないまでのことだからである。人が何らの過ちも無いのに過ちを犯したと云うのであれば、詳細にわたり弁明するまでのことだからである。忘れ難いほどに深い恨みがあれば、その人に参会しないまでのことだからである。そして、人が危害を加えたなら、我も報復するまでのことだからである。ただ腹を立てたところで、何の効果があろうか。 

 こうしたことから、道に適っている人は、怒らずにその事をなすのを以てよしとするのである。ただし、郎従・家の子などを諌(いさ)めるには、腹は立たなくても、怒っているふりをすることがある。 

 内心から腹を立てるのは、全て物の意を弁えていない人の為すことではないか。並外れて怒りっぽい人には、僻事(正常でない、まともでない事)が多く出て来るものである。こうしたことからも、仏は怒り怨むことを戒め、神は慮りが短いことを嫌うのである。 

 特に人の上に立つべき人が腹黒ければ、非道に命を奪い、無意識のうちに罪を作り、物狂わしい事ばかりが多くなってしまう。その上、主将などが腹悪しければ、家臣は恐れて下々の訴えが上に通じない。訴えが通じなければ、国が乱れる。国が乱れたならば、亡ぶものであるのだ。 

 そうであるから、この度の名越もこうした道理を知っていたならば、その恥を悔いて、心を鎮めて謀をめぐらし、朝夕にこれを思うならば、日を経て、年月を経ても、どうしてこの恥をすすがないことがあっただろうか。 

 名越は智が浅く、腹悪しき者であったがため、日を経ずして二度も楠木の謀に落ちたのであった。常に賢い者でさえ、腹悪しければ、智恵は失せるものである。まして盲将で腹が悪しければ、どうしてよい事が起こりえようか。 

  

▽ 短慮は失うものが多い 

 思慮が足りなければ、過失が多くなる。 

 一には、後悔が残る。 

 二には、物狂おしい。 

 三には、その愚が顕れる。 

 四には、智ある人が親しまず。 

 五には、他人に仇の思いをなす。 

 六には、器量・才能をだめにしてしまう。 

 七には、病が生じる。 

 八には、争いが多い。 

 九には、苦労が多い。 

 十には、衆悪を発するということである。人たる者は十分承知しておくべきことである。 

 今の名越の人々には、これらの損失が多々ある。人が多く死んだことへの後悔があるだろう。油断し、不覚にも夜討ちに遭ったことへの後悔もあるだろう。郎従たちに死せよと下知したのは物狂おしい。油断したのも、死せよと云ったのも、その愚かさを露呈しているのである。定めし後悔があることだろう。また、死んだ郎従と親しい人々は、君主に従ったことで危険な目に合って死んだのであるから、智が有る人はこれを闇主であると思って親しまず、あるいは恨みの念をも抱くことになるだろう。 

 何とも浅ましいことである。 

  

(「敵将の短慮につけいる」終り)

2014/8/8