【第13回】千早における諜報活動
▽ ごあいさつ 

 皆様、こんにちわ。日本兵法研究会会長の家村です。 

 今回は、千早城の戦いで行った諜報活動についてです。 

 孫子兵法では、諜報活動により、敵の実情を事前に察知することが「戦争の要」であると強調し、次のように説いています。 

 戦争には莫大な出費がかさみ、敗ければ全てが無駄になる。それにもかかわらず、間諜(スパイ)に爵位、俸禄や百金を与えるのを惜しんで敵情を知ろうとしないのは、民衆の永い苦労を無にするものであり、将軍としての資格がない。 

 聡明な君主や賢明な将軍が行動を起こして相手に勝ち、多大な成功を収めることができるのは、あらかじめ敵情を察知しているからである。その敵情は、必ず人である間諜を通じて収集できるのである。 

 物事の本質をすぐに理解できる俊敏な思考力がなければ間諜を用いることができず、部下への深い思いやりがなければ(危険な任務である)間諜を使うことができず、人心の機微まで察知する深い洞察力と幅広い教養がなければ間諜が収集する複雑に錯綜した情報の中から、その真偽を判別し、価値ある情報を嗅ぎ分け、真実を把握することができない。 

 (以上、孫子第十三篇「用間」より) 

 楠木正成とは、こうした孫子の教えを骨と化すまで学び、それを完璧に実践できた武将です。 

   それでは、本題に入りましょう。 

  

【第13回】 千早における諜報活動 

 (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より) 

  

▽ 楠木、大塔宮からの上洛要請に応じず 

 楠木正成が和泉・河内の両国を随えて、千早城を構築していた頃、大塔宮からの仰せが伝えられた。 

 「正成は京都に上って、先ず六波羅を攻め落とすべきではないか・・・」 

 楠木は、大塔宮の御使いの者に次のように回答した。 

 「仰せたれることは承知いたしました。しかしながら、只今関東から大勢の敵が上っているところであり、これらは本拠地を強化してから京都に攻め上るでしょう。その上、先ず和泉・河内の軍勢は1万騎に足りません。これにより京都の六波羅を亡ぼそうとするのは、至難の業です。また、西国の軍勢も摂津の地から上って味方を襲うかもしれません。そうであれば、今上洛しては、前後の敵に味方はなす術を失うことは疑いないものと思われます。その上で、関東勢が上ってきたならば、河内へ引き返そうにも、河内に敵を防ぐだけの城が一つもなければ、ゆゆしき事態となりましょう。 

 そこで、正成の存念を残さず申させていただきます。先ず、宮は吉野の城にしばらく御座をすえられ、諸国へ令旨(命令)をなしていただきたい。正成も河内に一つの城をこしらえ、鎌倉の北条高時の動きも見据(す)えておきたく存じます。」 

  

▽ 鎌倉へ潜入させた忍びからの報告 

 そこへ、正成が鎌倉に忍ばせておいた兵士24人の内、2人が帰参して、正成に報告した。 

 「近日中に東国の軍勢は、60歳の老齢者から17歳の若者までを引き連れて上ってくるものと申しております。また、山陰・山陽・南海・西海へも皆、このように下知を下しているものと伺っております。東国勢は皆、年内に国々を出発して、道中で越年し、また『年の内に京都に到着しようとするのは大いに忠誠心があるものである。また、国を出発するのが春になってからというのは忠誠心が無いものとする』と下知してふれまわるので、12月初旬には、皆国々を出発することになったのであります。」 

 そして、鎌倉にいる忍びの兵士らの指揮官である林藤内左衛門光勝、野崎七郎常宗、原兵衛吉覚(よしあきら)の3人による書状を取り出して正成に与えた。正成が開いて見ると、鎌倉から帰った2人の忍びが申したのと同じ内容であった。 

  

▽ あくまで情報網の存在を隠した正成 

 正成はこの時、仰せを伝えに来ていた大塔宮の御使いに、鎌倉からの情報について一切話さなかった。また、正成が大塔宮に直接会って、このことを話すこともなかった。 

 鎌倉幕府側の最新の動きを大塔宮に伝えてこそ、吉野の城も防ぐ手だてを一層確かなものにしたであろう。しかし、正成が御使いにこの東国勢の上洛という重大事を隠したのは、この事を秘密にすべきだったからではない。正成が関東に兵士を潜入させているという事を知らせないためであった。実は、楠木の兵士は皆、商売人となって鎌倉に居たのであった。 

 それ以降、千早では、いよいよ敵が攻め寄せることへの用意を進めることになる。 

  

▽ 山寺に妻子と別働隊を隠し置く 

 正成らが千早城に籠っている間、軍勢の妻や子らは、賀名生(あなう=現在の奈良県五條市にある丹生川下流沿いの谷)の奥にある観心寺という、嶺を通る山伏でなければ訪れる人もいない場所に、軍勢1千余騎を相添えて、極秘のうちに隠し置いた。舎弟の和田七郎正氏、和田孫三郎、恩地左衛門、真貴(しぎ)、渡辺五郎らもこの地に在った。 

 この軍勢の任務は、「敵の通路を遮断し、弱い陣があれば後ろから攻め、夜討ちにもする。また、寄手の謀や作戦を聞き付けて、城の内にこれを知らせ、人々の妻子を十分に警護する」というものであった。そうであればこそ、吉野の城が落ちてから後は、大塔宮もこの場所を御座としたのである。 

  

  ▽ 別働隊による情報収集 

 幕府軍が千早城を囲んでいる時、観心寺に所在するこの軍勢から、毎日10人から20人が、ある時は濁酒など下部の食物を売り、あるいは陰陽師にまぎれ、また猿回しなどの遊び者にまぎれて敵陣に潜り込み、陣中の取り沙汰を一つひとつ聞きながら、壁に耳を付けてまで、他人が何を考えているか探り出そうとした。このようにして観心寺へもこれらを知らせ、千早城中へもこれらを報告した。 

 敵は千早城を百重千重(ももえちえ)に取り囲み、役所(戦陣での将士の詰所)をいくつも構えていたにもかかわらず、正成は毎夜、この別働隊と書状で通じていた。敵は、自分たちの陣内で楠木勢がこうした情報活動を行っていることを全く知らなかった。 

  

▽ 囚われた城兵と偽の商人 

 ある時、夜明けの頃、城から一人の忍びが正成の書状を帯して出た。大仏(おさらぎ)奥州という者が、役所の前でこれをとがめた。とやかく弁明することを許さず、回状があるにちがいないぞ、と持物をつぶさに探して見ると、白紙が二、三十枚折られているものの外に墨書きされたものはなかった。 

 敵の大将が、「それでは、お主が言うように、吉野の方の商人が道を歩き間違えたのに違いあるまい。誰かこの者を知っている人はおるか」と尋ねたところ、観心寺から偽の商人になって来ていた正成の忍びの兵が、この事を聞き付けて、心元無い様子でやって来た。そして、囚われた城兵に向かい、手をはたと拍(う)って、 

 「いかにも、お前さんはどうしてこのようになったのだ?」 

 と問うた。そこで、囚われた城兵は云った。 

 「道を歩いて迷ってしまい、城の方向へとやって来るうちに、ここは敵の方であると思って、急いで引き返したところを、番兵たちに見付かってしまい、『怪しいやつだ』と云われて、このように取り押さえられたのです。」 

 そこで、商人が敵の大将に申すには、 

 「これは私の友人です。吉野の方から参った者でして、不審な者ではありません。二、三日ほど前に商売のために参ったのですが、売ろうとして用意していた物を盗人に取られてしまいました。売り物は品々あったのですが、もしやこの盗品を売っている者に出くわさないかと、我々二、三人であちらこちらを見回しながら遊行しておりましたが、このような盗人も売物も、未だに見つけられませんでした。朝からこの男が見えないので、我々もまた尋ね参って見ておりました。この者は私にお任せください。なんら不審な者ではございません。」 

 そして、囚われた城兵に向かって云った。 

 「おいお前、何でそんな姿でおるのか。生まれつき臆病者なのだな。この辺りは不案内な場所だから、何事かあったのではないかと思っていたが、そうだったか。やはり、こうなったか。」 

 そこで、囚われた城兵が、おどおどしながら、「恐ろしさで、わけがわからなくなったのです・・・」と云う。これらのやり取りを聞いていた敵の大将は、 

 「実に、諸軍勢の中であれば、そうであっただろう。不憫(ふびん)なやつだ。その上、書状もないのだから、本当に商人なのであろう。このように、諸国から来る商人を煩わせたことは、軍勢が困窮することにもなろう」と云って、この囚われた者を帰したのであった。 

  

▽ 秘策「白紙の書状」と忍びへの褒章 

 この囚われた城兵が折って持っていた二、三十枚の白紙は、観心寺への文だったのである。 

 その白紙を水に漬けて見れば、水の中で文字が浮かぶのであり、また、鍋の墨を付けて見ても文字が出るのであった。その一枚目には、 

 「当能悟魔脳。安普羅遠土理帝覚近之(当に能く魔脳を悟る。安んぞ普く遠土に羅らん帝を理して覚之を近くす)」 

 との難しい文が書いてあった。しかし、その本当の意味は、そのまま 

 「とうのごまのあぶらをとりてかく(=この書状は、唐の胡麻の油を使って書いてある)」 

 と読めばよいのであった。このような巧妙な手段を用いていたので、敵は一度も忍びの使いを見つけられなかったのである。 

 正成は、このように命懸けで活動する忍びの兵たちについて、少しでも良い事を聞き出したならば、白銀・銭貨をそれぞれに与えており、観心寺に置いていた妻子もこれを楽しみにしていたことで、諸事について恨みを抱くものもなかったという。 

  

(「千早における諜報活動」終り)

2014/8/15