【第15回】敵の夜討ちと返り忠を防ぐ
▽ ごあいさつ 

 皆様、こんにちわ。日本兵法研究会会長の家村です。 

 今回と次回の二回に分けて、敵の夜討ちや返り忠(裏切りを促す謀略)への対応策についての楠木正成と足利高氏・赤松円心との問答をご紹介いたします。そこには、いかなる時でも部下の心をしっかりつかんで動かす、楠木の統率力の「神髄」を垣間見ることができます。 

 それでは、本題に入りましょう。 

  

【第15回】 敵の夜討ちと返り忠を防ぐ 

 (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より) 

  

▽ 赤松円心が抱いた疑問 

 世の中が静まってから、足利高氏の宿所において、武将とその家臣らが集まってあれこれと語りあった次いでに、赤松円心が正成に質問した。 

 「元弘の合戦において、千早での寄手(=攻撃側)の大将は、城への夜討ちを全く実施いたしませんでした。古(いにしえ)から常々申し伝えられていることでありますが、敵が強固に守備する城を攻めるには、いくつかの戦法がございます。 

 一には、夜討ち。二には、城中に返り忠を求める。三には、偽の和睦による智謀。四には、敵に負けたふりをして油断させて勝つ謀。五には、食絶(兵糧攻め)でございます。楠木殿ほどの戦(いくさ)の達人に、いまさらこれらの一つひとつを申すには及びません。 

 これらは皆、城攻めの「定石」ともいうべきものでございますが、東国の将は一度もこのような謀がなかったことが、なんとも不思議でございます。」 

  

▽ 千早城での夜討ちへの備え 

 これに対して、楠木正成は次のように述べたのであった。 

 「東国の将も、その謀がなかったわけではございません。第一に夜討ちは、中々実施できるものではなかったのです。それは、この私が千早には多くの兵の中から8百余人をより選って籠らせていたからです。これを何らの手立て(作戦)も無いままで攻めようとする敵ならば、たとえ天竺(インド)や唐土(シナ)の軍勢であっても落とせるものではありません。 

 そうであれば、夜討ちこそが気がかりであると考えて、夜の番兵2百人の内、二つに分けて百人を酉の刻(午後6時頃)から子の刻(午前0時頃)まで、それぞれの役所(城内にある番兵の詰所)へ5人から10人を配置し、櫓(やぐら)ごとに派遣しました。また、子の下刻(午前1時頃)から卯の刻(午前6時頃)まで、もう一方の百人を遣わして、それぞれの役所の番を交替させ、先番を休ませました。 

 次の夜は酉の下刻(午後7時頃)から、先の夜の暁天(後半夜)に番をしていた百人を、先の夜と同じように守らせ、子の下刻(午前1時頃)からは、先の夜の宵(前半夜)に番をしていた百人をもって守らせ、役所の守備を堅固にしました。これら番兵の気を弛ませないため、城には鐘を十二の時間に(=2時間に一回)つかせました。 

 また、追手・搦手(おうて・からめて=正面と裏側)の2箇所以外には城戸を構えませんでした。この二つの門には篝火(かがりび)を焚かせました。門脇と呼ばれる番兵20人は、篝火から二十余間(約36メートル以上)ほど離れた所に配置し、二時(4時間)ごとにこれを交代させました。20人の内、2人が雁番(かりばん=休まずに立哨している番兵)です。それと云うのも、20人の篝も、時間が過ぎていけば、うつむいて眠ってしまうものであり、忍びの兵はこの居眠りの間に通り過ぎるものだからです。2人は雁のように、代わる代わる四方を見回すようにさせます。 

 廻り番(巡察隊)60人は、10人を一組として、毎夜六回から七回、風雨の夜は十回に及んで、塀の裏、樹木の間を巡回します。松明(たいまつ)三つをとぼして三十間(約55メートル)から四十間(約73メートル)先を前進し、「御陣にご用心」と呼びかけて、それぞれの役所の番に怠りが有るか、無いかを見るのです。そして、役所の櫓々から一夜に五〜六回は車松明を投げて空堀の中を照らし、また通常の松明を打ち出して忍びを発見します。 

  

▽ 正成自らも巡回して番兵たちをねぎらう 

 その上、正成自身が毎夜三〜五回程は選りすぐった郎従10人を引き連れて、松明を二つ持たせ、雨の夜は三回の内一回は、植木の内側を行かせました。何れも正成に先立つこと二十間(約36メートル)〜三十間(約55メートル)であり、各役所を訪れて、番の兵に心から慰労の言葉を投げかけました。 

 もしも、怠っている者がいたならば、「これももっともなこと。数日のお疲れ、ご苦労様」と云って怒ることなく、さらに、かたわらで怠りなくやっている者には、少しの引き出物(褒賞品)を与えて通り行けば、始めは怠っていたものも、後には恥ずかしく思って怠らなくなるものです。そうすれば、兵たちは一ヶ月の中に何回褒賞品を与えられたかということのみを面目とするようになるものです。 

 その上、正成は終始、くつろいで眠ることをせず、小具足を着けて、物具(もののぐ)によりかかってまどろみました。このため、非番であった兵も皆、毎夜小具足を着けて物具・甲を枕にして伏せていたといいます。 

 また、非番の者が夜回りすることを堅く禁止しました。正成がその役所や宿所に到着した時、「何々殿」と呼ぶのに対して素早く答えることができた者には、これを取り分け褒め讃えましたので、非番の者も皆、少しであっても夜居眠りすることがありませんでした。さらに夜の番兵たちにも、番の郎従にも、三日に一度は合言葉を替えて、問い、答えさせたものです。 

  

▽ 門の出入りを厳重に警戒 

 下部(しもべ=下級の者たち)の門の出入りですが、出ることは問題ありません。 

 入るのは番の役目として「どなたのもとへ」と問い、名字を言えばその侍を呼び出してこの者を引き渡します。書状が有ったとしても、そのまま通してはなりません。また、相手が侍であればその名字を言うのに対し、番の兵が知っていれば通し、また、見知らぬ者であれば正成に通知して然るべき人に来てもらい、この者と面会させます。さらに、番兵が見知っていて通す時にも、その通門者は(番の)我が郎従の顔を自ら見て、その名を言ってから入れます。 

 通門者が正成に急の用があるならば、郎従一人を番兵に引き合わせて、その郎従が通門者を連れて、先のようにして通るようにします。 

 こうしたことから、寄手が夜討ちの手立てを仕掛けてきたとしても、そのたびに追い返されてしまい、謀も成り立ちません。その上、正成も敵の陣中に忍びの兵を50人、その内30人を吉野からも潜入させ、城からも出して敵の作戦を知り尽くしておりますので、敵にとって夜討ちなどは思いもよらぬことだったのです。」 

  

▽ 正成が示した返り忠の防止策 

 また、城中での返り忠への対応策について、正成はよく計らっていたものであった。正成は最初に、次のような指示を出し、全員に徹底していた。 

 「千早へ敵が攻め寄せようにも、力攻めで城が落ちることはあり得ない。そうであれば、城中の兵に、誰かを定めて陰謀を図ろうとするであろう。その時でも、その兵は一つの忠をなされよ。それは、寄手は定めた相手に『城を落とすことができたならば、賞を与えよう』と言うに違いない。そうであれば、その印(約束の証文)を取って、正成に見せるようにせよ。所領であれ、金銀であれ、敵の印の二倍を正成が与えよう。 

 また、昼間に適当な機会があれば敵に会いに行ったり、語り合ったりすることもよい。しかし、非番であるからといって酉の刻(午後7時頃)を過ぎて、あちこらを歩き回って誰かに参会したり、語り合ったりしてはならない。」 

  

▽ 失敗した足利高氏の「返り忠」工作 

 このことに関連して、正成が高氏に語りかけた。 

 「かつて足利殿から返り忠の工作がありましたな。私の郎従である早瀬吉太という者に『貴殿が役所から手引きするならば、二千貫の所領を差し上げよう』と・・・、それには大仏殿の御判がありました。また、当座の御引出物に五百両の黄金を与えられましたが、正成はすぐに千両の黄金を彼に与えるとともに、『四千貫は縁起が悪いので、五千貫の領を(早瀬に)知行せよ』と命じたのでありました。今、約束のとおり五千貫の領主となった早瀬右衛門という者がこの人物です。 

 そして、夜討ちの日が示されて、どのように実行するかも決定され、「人質をいただこう」という段階になって、吉太は私に『どうしましょうか』と相談してきましたので、私はこのように指示しました。 

 『親類は皆、城にはおらず、妻子も南都の方に居るので、人質に差し出すことができないという理由で、やむなく一枚の告文(神仏に誓う文書)を出することでゆるしてもらうようにせよ。』 

 これを足利方に伝えさせたところ、『そうであれば、告文でよかろう』という返答があったので、告文を出させました。 

 そして、城を夜討ちしに来た敵の軍勢3百人、大将は細川九郎義実でありましたのを、早瀬が城の中から険しい嶺の下へと呼び寄せました。ちょうど寄手が来たところで、敵から見える所で城兵数人が吉太を押さえつけるや、上から大きな石を次々と投げかけました。少し間をおいてから、寄手が散らばった所に松明を打ち出して、その光によって敵を射たところ、大将を討ち取りました。敵の郎従もまた、数多討たれておられましたな。」 

 これを聞いた高氏は、 

 「さては、あの告文は虚言でありましたか。今まで、あの男に裏切られ、騙されておったのですか」 

 と問うた。そこで正成は答えた。 

 「彼が告文を破ったのではございませぬ。あの告文は正成が自ら書いたものでございます。また、彼に神仏への誓いを破らせることは、天罰を受ける恐れもありますれば、吉太を取り押さえることで敵であるかのように行動させ、このようにしたのであります。」 

 これを聞いた高氏は、正成の部下を思う心に感じ入って、思わず笑った。 

 そしてすぐに、高氏は 

 「その時にこそ、私が最も頼みにしていた郎従たちが63人も楠木殿に討たれてしましまったのか・・・」 

 と述べつつ、涙ぐんだのであった。 

  

(「敵の夜討ちと返り忠を防ぐ」終り)

2014/8/29