【第17回】 楠木正成の『軍法六箇条』 |
▽ ごあいさつ 皆様、こんにちわ。日本兵法研究会会長の家村です。 千早城における楠木正成の戦いぶりは、孫子兵法にある「兵は詭道なり」をそのまま実践したものでした。 詭道とは、敵を詐り欺く(いつわりあざむく)ことで裏をかき、判断を誤らせるやり方ですが、これについて孫子兵法では具体的に次のように説いています。 能力があっても無いように見せかけ、能力が無くて謀を用いても能力があるように見せ、近くにいても遠くにいるように思わせ、遠くにいても近くにいるように錯覚させ、利益を与えて敵を誘い出し、混乱させて討ち取り、敵が充実しているときは備えを固くし、敵が強ければこれを避け、敵が怒るように挑発して心をかき乱し、こちらからへりくだって驕りたかぶらせ、安んじて疲れていなければ疲労させ、親しみあっていれば分裂させる。敵が備えていないところを攻め、敵の不意を突く。 (以上、孫子第一篇「始計」より) 今回は、楠木がなぜこのような詭道を完璧なまでに実践できたのか、という疑問にお答えいたしましょう。 それでは、本題に入りましょう。 【第17回】 楠木正成の『軍法六箇条』 ▽ 奇策「藁(わら)人形作戦」 これまでの常識では考えられないような楠木の戦い方に寄せ手(幕府軍)はすっかり慎重になり、当初のように勇敢に攻めようとはしなくなった。 千早城を力攻めで落とそうとすれば、兵士の損害ばかり多くなるので、寄せ手は城を包囲だけして兵糧攻めすることに決め、戦闘を中断した。そこで暇をもてあました寄せ手の将兵らは、碁や双六をして日を過ごし、また茶会や歌会を楽しんで夜を明かした。 今度は千早城内の兵士らも、することが無くなって退屈してきたところ、数日して楠木正成が言った。 「そろそろこの辺で、やつらの眠りを覚ましてやろうか・・・。」 そして、藁くずやぼろ布などで等身大の人形を2〜30体作り、甲冑を着せ武器を持たせて、夜中に城の麓に立てた。人形の前には畳を楯のように並べ、背後には選りすぐりの兵500人を配置した。夜がほのぼの明け初めると、この兵たちが朝霞の中から声を合わせて閧(とき)の声を上げた。 千早城を取り囲んでいた寄せ手の兵たちは、 「それっ、城から出てきたぞ。敵はいよいよ運が尽きて、やけくそになったのだな。」 と云って、我先に攻めかかっていった。 楠木軍の兵士らは、作戦どおりに形だけの矢いくさをしながら大勢の敵をおびき寄せると、人形だけをその場に残して城へと退いた。寄せ手は人形を本当の兵士と思い込み、討ち取ろうと集まってきた。近づいて見ると、一歩も退かずに戦った勇敢な兵士らは皆人間ではなくて、藁で作った人形だった。 次の瞬間、楠木軍は城中から大石、4〜50個を一度に投げ落とし、激しく矢を射った。これにより、一箇所に集まっていた寄せ手の兵は、300余人があっという間に即死し、500余人が半死半生の重傷を負った。 ▽ 軍法なきがゆえ「藁人形戦法」に引き込まれた幕府軍 (以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第七 千剣破(ちはや)城軍の事」より 楠木の奇策に又しても散々な目にあわされた東国の大将は、智謀が無いと云えよう。 「なぜ、今ごろ楠木が軍勢を出して、閧の声を発しているのか。おそらく謀があってのことでは・・・」 このように思わなかったからである。そうでなければ、なぜ早速に軍勢を出撃させたのか。これが一つである。 もしも、寄手の軍勢が大将の下知を守らず、勝手に進んだというのであれば、なおもって将の恥であるとともに、兵の恥でもある。 およそ、将が戦場に赴くならば、先ずは軍法(戦場で守るべきルール・行動規範)を堅く守らせるものである。自分の配下の者にすら、これは常識である。ましてや、諸国から寄せ集めの兵であれば、まずは軍法を発出し、これを強制しなければならない。にもかかわらず、あらかじめ軍法を出さなかった。 また、兵はいかに些細なことであろうとも、将の下知を守ってこそ進むものであるのに、そのような手立てが一つも無い。これが二つ目の不可である。 ▽ 正成の『軍法六箇条』 それでは、楠木軍にはどのような軍法があったのだろうか。これを以下に紹介しよう。 一 この度の軍陣において、夜討ち並びにいかなる些細な事があったとしても、将の下知が無いのに懸け出でる(注:交戦する)ことがあってはならない。ただし、敵がすぐ手前に寄せ来るような場合には、その一陣の将の下知によること。 一 もしも、陣中に火災が有ったならば、そこの一陣が対処して、これによる亡失を防がねばならない。それ以外の陣は、急いでその陣の前に兵を備えて、下知を守るべきこと。 一 陣中において女を求めてはならない。付け加えて、諸軍勢は酒宴などの遊びに専念することがあってはならない。 一 甲乙誰であろうと諸人に勝れて忠があれば、それに相応しいだけの賞を行うべきこと。 一 老若にかかわらず陣中だからと云って、無礼な振る舞いをしてはならない。喧嘩・口論は、はしたないことである。 一 その組の陣の外、所用も無いのに表敬訪問だと云い、または親交を結ぶと云って、他の陣へ歩き行くことは、忠を心に懸けず、武の嗜(たしな)みが無い兵である。道を踏み行おうとする人であれば、速やかにこれを禁じるべきこと。 このような法には、いろいろな種類がある。正成は、一陣一陣にこの法を手始めとして、良いものを加え、また不相応なものを削除した。それに対して、東国の将にこのような軍法が無かったのは不覚である。そのため、城から出撃してきた楠木軍が発する閧の声を聞くと、同じように出向いてしまい、見事に相手の術中に陥ったのである。 ▽ 敵の手立てに落ちる、とは その上、敵軍が突然に兵を進めるのであれば、先ずは深い謀があるものだと知らねばならない。敵の手立て(作戦)を十分に察知していなければ、動いてはならないと云われる。もしも、その意識が無ければ、勝ったといえども、実の勝利ではない。ただ偶然にそのような結果になったのである。 東国の将が、これらの事を知らないのは恥であるぞ。これらこそ、敵の手立てに落ちるということである。 ▽ 敵の智の程度を十分に知り、戦に勝つ また、鎌倉幕府が亡んだ後、赤松則祐が正成に向かって尋ねた。 「楠木殿の藁人形の謀には、腑に落ちないことがございます。なぜかと申せば、味方は500余騎、敵は数万騎でありますれば、人形をも人をも物の数になりませぬ。敵が本気になり、数万騎で一度にどっと攻め懸かっていたら、城までも危うくなっていたことでしょう」。 これに対して、正成が答えた。 「則祐の考えは、恐れながら思慮が浅いものである。突発的で小規模な戦いであれば、敵も数万騎の兵をそろえる必要はないだろう。こちらの陣からバラバラに5〜6人、あちらの陣から7〜8人程度が、後に先にと攻めかかって来ることになるだろうから、足軽がそこそこに交戦してこれらを石弓の下までおびき寄せ、一挙に討とうとしたのである。 もしもそうではなく、寄手が陣々に太鼓を打ち、軍勢をそろえて攻め来るようであれば、その間に正成の500余騎は、軽々と城中に引き取るように計画していた。そうであるから、正成も自ら城下の斜面半ばに居て、太鼓による約束事を堅く守らせて、下知したのである。 こうして私が考えていたところと少しも違わずに、数多くの敵を討つことができたのだ。」 これを聞いた則祐は、「実に敵の智がどの程度かを十分に知っていなければ、戦に勝つことは難しいものでありますな・・・」と云ったのであった。 (「楠木正成の『軍法六箇条』」終り) |
2014/9/12 |