【第18回】 大将は戦場を離れるな
▽ ごあいさつ 

 皆様、こんにちわ。日本兵法研究会会長の家村です。 

 『太平記秘伝理尽鈔』には、合戦における「戦術・戦法」や「指揮・統率」に関する具体的な話がたくさん書いてあります。同じ楠流兵法書でも『河陽兵庫之記』や『楠正成一巻之書』が洗練された「理論書」であるのに対して、『理尽鈔』は「事例集」といった位置づけにあったと云えましょう。 

 江戸時代、多くの武士たちがこうした「理論書」と「実例集」の両方を読むことで、戦(いくさ)のない時代でもより実戦的・実際的に「武人としての嗜(たしな)み」を身につけたのでしょう。 

 今回も、千早城外・賀名生(あなう)の別働隊が大活躍しますが、まずは「理論書」の中から関連記述を紹介いたします。 

 「上下が和し、諸人がうれしそうに喜び、楽しいことをなにも施されずとも楽しみ、賞をなにも与えられなくとも満足し、国と人々が親睦して、上の者は恩恵を与え、下の者は果たすべき任務をしっかりと尽くし、その君主を尊ぶことは霊神が在するようであり、懐かしむことは父母の如くであり、罰すれども怨まず、狎れていても侮らず、洋々悠々と徳化が下に流れていくのは、治まっている世の中の効果である。(河陽兵庫之記一 順徳)」 

 「これまでに、令が正しくなされて人がこれに服従しなかったことは無く、服従して剛毅になれば人は常に死を恐れない。兵自ら進んで死んでゆくようであれば、戦は必ず勝つ。このようにして我が兵士全員が道義に殉ずる時は、貧しく賤しい身分であっても天地の中で何ら恥じるところがなく、たとえわずかな兵力であっても大敵を恐れることもない。(河陽兵庫之記二 威令)」 

 それでは、本題に入りましょう。 

  

【第18回】 大将は戦場を離れるな 

 (「太平記秘伝理尽鈔巻第七 新田義貞、綸旨を賜はる事」より) 

  

▽ 宇都宮公綱、本格的な攻城戦法で櫓を掘り崩す 

 伝えられるには、(宇都宮)公綱が千早に下り来て、大将の大仏奥州と評定(=作戦会議)をして諸軍勢を集め、千早を百重、千重に取り囲ませて、夜毎押し寄せる鯨の波のような時の声を発し、前にいる兵は手に手に鋤・鍬を取って堀をほり、前に土を高く積み上げて、その陰に宇都宮を始めとして着陣した。城からはたくさんの車松明が投げ込まれ、大石や大木を投げ落としてきたが、堀によって留められた。 

 夜が明ければ、これらの堀を前に当て、宇都宮を始めとして宗徒の大将たちが笠じるしを風になびかせて、雲霞のごとくに並んでいたのだった。夜に入れば、寄手は又しても時の声を発し、前の夜の堀からさらに十間(約15メートル)から二十間(約30メートル)、三十間(約45メートル)押し出して堀をほる。城からは雨あられのように大石・大木が投げ落とされる。このような堀が出来るまでは、石にあたる者も多かった。しかし、堀が出来てからはあたる者もいなくなった。 

 毎夜このようにして十日以上も続け、大勢でじわりじわりと城の斜面を昇って攻めたので、ついに城の切り岸の下までたどり付いた。そこで、寄手は鹿垣(ししがき)一重を引き破って捨てたところ、これによりかえって城兵から隠れることも出来なくなった寄手の兵士は、数多く討たれてしまった。楠木がよく考えて構築した千早城の切り岸には、よじ登れる箇所が全くなかったのだった。 

 こうしたことから、宇都宮は新たな謀を考え出した。「とにかくこの城を掘り崩せ」と命じて、切り岸の下から掘りに掘った。この時の寄手は密集しており、間隙がなかったので、城中から忍びの兵を出すこともほとんど出来なかった。そのため、楠木は敵が城を掘り崩そうと工事していることさえ知らずにいたところ、大手の櫓(やぐら)一つが掘り崩された。そこで寄手が城中に切り入ろうとしたが、城から大石が投げ落とされたので大勢が討たれて中止された。正成がかねて塀沿いに植えさせていた樹木が、この時には厳しい構えを維持するのに役立ったことであろう。 

 その後は役所役所の後ろに穴を掘って煮え湯を沸かし、これを敵にかけたり、石を落としたりして敵兵を数多く打殺した。これにより、寄手はいくら堀り続けても、櫓の一つも掘り崩せなくなった。ただ、宇都宮が最前にいて正面の櫓一つを掘り崩したことだけは、多くの人を死傷させたにもかかわらず、一つの高名(手柄)となったのである。 

  

▽ 正氏、賀名生の別働隊を率いて寄手を夜討ち 

 正成は、寄手が城を攻める様子を見て、一つ夜討ちをしなければなるまい、と思っていたところに、賀名生(あなう)に居た楠木七郎(正氏)が500余騎を率いてやってきた。 

 風雨の夜の暗闇にまぎれて、互いに顔を知り知られている兵を、10人、20人一組にして、城を囲んでいる大将の諸隊へ分散して遣わし、自分は150騎で宇都宮の陣の後ろにまぎれていた。そして、味方の兵たちが夜通しの警備の交代に行く真似をして、合言葉を定めて居たのであった。 

 (同じく賀名生の)和田孫三郎には、選りすぐった兵800人を引き連れさせ、大将の本陣に忍びを入れて焼き立てさせ、これを合図に前にいる200余騎で陣中に切り込み、残りを三つに分けて、あちらこちらに軍勢を伏せさせていたのであった。 

 寄手が「これは何事だ」とあわてているところに、楠木七郎がすでに組ごとに分けていた兵たちが、 

 「味方の何がし誰それが、楠木殿に返り忠しておられますぞ」 

 と叫びながら、前後不覚に風の如く切って廻ったので、寄手は驚き騒いだ。そこへ楠木七郎が150騎で宇都宮の陣へ懸け入ったので、敵は蜘蛛(くも)の子を散らすように自軍の陣へ引いて行き、また自軍の陣さえも通過して遠くへ引いていくのも多くあった。大将の陣も散々に懸け乱された。 

  

▽ 正成、自分だけ戦場を離れた正氏を批判 

 そうした中で、正成は城から一騎も出撃させることなくこれらを見物して居たのであったが、そこへ楠木七郎が城門の前にやって来て番兵に小声で語りかけた。番兵が喜んで門戸を開こうとするのを七郎がとがめて問うた。 

 「どうして重要な城の門戸を、このような時に、大将の下知も無いのに開こうとするのか。番の兵は誰であるか。重大な過ちである。・・・ところで、正成は無事でおられるか。」 

 番兵は「別に何ごともございません」と申した。七郎は同行してきた兵に言った。 

 「おぬし、正成に伝えよ。寄手どもが千早城を激しく攻めることがあれば、私こそがこのようにいたしましょう・・・と。さて、大将が見えないのを我が勢も驚いておることであろうから・・・」 

 そして兵一人を城に入れ、そこから七郎正氏は帰った。正成はこれを聞いて、 

 「思慮が浅いからであろう。大将たる者が、合戦の最中に戦場を去って、ここに来るとは。今、見てみよ。味方の兵たちは七郎が考えていたとおりの戦をしていないだろう。早々と引くことであろう」 

 と云ったのであるが、案の定、あちらこちらで組をなしていた兵は、正氏が見あたらないので、早くに引いてしまう者も多かったという。 

  

▽ 和田、忍び一人だけを城に派遣 

 これに対して、和田孫三郎は忍びの兵を一人で城へ遣わしたのであった。正成は、「七郎よりはるかに優っている」と語っていたという。 

 和田も七郎の姿が見えないと聞いて、 

 「楠木殿に対面するために城へ入られたのに違いない。まずいな・・・」 

 とつぶやきつつ、自分が率いる兵を打ち連れて山かげに隠れてしばし待っていると、正氏が七十騎ほどでやってきた。前もって「合図して待とう」と(集合場所に)決めていた峰に登って、旗を打ち立てて待っていると、方々から兵が10騎、20騎ずつ走って来たので、それらを打ち連れて引き退いたのであった。 

  

▽ 正成、正氏の忠・孝・勇を認める 

 寄手は大将の陣を始めとして、敗れて討たれる者は数えきれぬほどであった。それでも、楠木側は小勢であったので引き退いたのであった。 

 陣を堅くして崩れなかった陣は、六つだけであった。二階堂道蘊(どううん)の陣、長崎四郎左衛門の陣、高橋九郎左衛門の陣、赤橋入道の陣、千葉介の陣、入江入道の陣である。これらも陣に敵が攻め寄せていたならば、踏みとどまることはできなかったと思われ、何とも情けない。これ以外の大将たちは五里、六里(約19キロメートル〜23.6キロメートル)も逃げて、次の日の白昼に帰ってくる者もあり、また日が暮れるのを待ってから戻り来る者もあったという。何とも見苦しいものである。 

 この夜討ちにより、正成もまた大いに利を得たのであろう。正氏の謀は、実に忠を尽くしたものである。兄に対する孝であり、勇でもあり、と正成も感じいたのであった。 

  

▽ 正氏が夜討ちを実行するまでのいきさつ 

 また、伝えられるには、千早城の櫓の一つが掘り崩されたことが賀名生にまで伝わると、正成の郎従たちが集まって云うには、 

 「我らが生きていたとしても、正成殿が滅亡されるのを見るのはつらく、恨めしい。先ず、我らが先に死して、後はどうなるかは知らない。とにかくひとつ夜討ちして、正成殿の御目の前にて屍を軍門にさらすか、敵をひとまず追い払うか、二つの内のどちらかに定めよう。もしも我らが残らず死んだとしても、城さえ強固にして在るならば、正成殿の御ため何を惜しむことがございましょう」 

 とのことであり、幼童に至るまで勇み進んだのであった。女や子供らでさえも 

 「さあ、正成殿の御大事がこの時でこそあるならば、我らも命を惜しんで生きたところで何になりましょう」 

 と覚悟を固めたように見え、口々に出陣を切望しているので、七郎も和田も「そうであれば」とのことで評定を開いて、このような作戦を立てたのであった。 

 正成は常に自分のことを思う意識が少なく、郎従を憐れんでいたので、郎従も皆このようであったのだ。将たる者は知っておくべきことであろう。この度は正成も郎従たちの志を大いに感じたことであろう。 

  

(「大将は戦場を離れるな」終り)

2014/9/19