【第19回】 武家と庶民の違いは何か
▽ ごあいさつ 

 皆様、こんにちわ。日本兵法研究会会長の家村です。 

 楠木正成が活躍した元弘・建武の時代には、武家だけではなく、公家や寺の僧なども鎧に身を包み、武器を手に戦いに参加していました。豊臣秀吉による刀狩や、徳川家康による士農工商の身分制度よりも250年以上も前のことです。 

 同じように武装して戦っても、武家とそれ以外の人々とでは、「本質的な違い」がありました。それは、今日の軍人と民間人についても全く共通することです。今回は『太平記秘伝理尽鈔巻第八』からそのことについて解説している箇所を紹介いたします。 

 それでは、本題に入りましょう。 

  

【第19回】 武家と庶民の違いは何か 

▽ 六波羅探題、摩耶城攻略に失敗 

 楠木正成が千早で鎌倉幕府側の大軍勢と戦っていた頃、隠岐の島に流されておられた後醍醐天皇は島を脱出され、伯耆国(ほうきのくに、今の島根県)の土豪・名和長年に護衛されて、船上山を御所とされた。 

 そこから、後醍醐天皇は諸国の武士へ討幕の綸旨(天皇からの命令書)を送られ、近国の武士らが我先にと駆けつけて来た。このことを知った京都の六波羅探題は、元弘3年(1333)閏2月、京都に最も近い摂津国(今の兵庫県東部)の摩耶(まや)城に立て籠もる赤松円心を討伐するため、佐々木判官時信と常陸前司時知に48ヶ所の篝(かがり=京の辻々警固の篝屋に勤務する武士)の軍勢と、京都に滞在している兵士ら、また三井寺園城寺(みいでらおんじょうじ)の法師ら300余人らも従軍させ、総勢7千余騎で摩耶山に向かわせた。 

 軍勢は閏2月11日、卯の刻(午前6時頃)に摩耶城の南側の麓から攻め寄せた。 

 円心は弓部隊の足軽200人を麓に下ろし、遠矢を少しばかり射込んで城に引き上げさせた。これを追った寄せ手(攻撃軍)は、七曲と言う険しく狭い場所におびき寄せられ、坂道で人馬が我先にともみ合って登っていた。 

 そこへ円心の息子らが率いる小勢が激しく矢を射込んできた。寄せ手軍は完全に奇襲され、互いに人を楯にして、その陰に隠れようと慌てふためいた。さらに赤松の軍勢500余人が側面と背面から切り込んできたので、寄せ手軍は後方から崩れだして、潰走した。逃げ道は深い田んぼや茨(いばら)が生い茂る野に挟まれた一本道であり、途上でも多くの兵が討たれたのであった。 

  

▽ 円心3千騎に六波羅7千余騎は少なすぎる 

 (以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第八 摩耶合戦の事付酒部・瀬河合戦の事」より) 

 この戦いで、北条仲時・時益(ともに六波羅北・南両探題)自らが向かっておられたなら、軍兵はおよそ4〜5万騎はあっただろう。これを二手に分けて、2万余騎は摂津から向かい、2万余騎は丹波路から三草山を超えて、赤松の後ろを遮り、播磨(今の兵庫県西部)へ乱入すれば、赤松は亡んでいたものを、そのような智謀がなかったのは何ともつたないものだと云えよう。 

 また、佐々木時信らに京の辻々を警固する武士、在京の集まり武士、三井寺法師などを駆り集めて、7千余騎にて摩耶へ向かわせたのは、大なる過ちであった。赤松の3千余騎は、全て精兵たちである。少なくとも、1万余騎で向かうべきだった。多ければ、1万5千余騎ほどが望ましかった。 

  

▽ 武士にあって郷人にないものは、「智謀」と「将」 

 もしも郷人(村人、町民など)1000人を以て、武士100人に対して戦わせれば、武士がいとも簡単に勝つであろう。 

 郷人にも力量の優れた者はいるであろう。また、剛毅な心の者もあろう。あるいは、武家にも力量の劣った者もいるだろう。また力量は優れていても臆病な者もあろう。それなのに何故、1000人の大勢でも、武家の100人に負けてしまうのだろうか? 

 その理由を考えてみると、二つのことが云えるだろう。 

 一つには、武家は職業として朝夕に武をたしなみ、郷民は武を学ばない。これゆえに武道(=武術と兵法)の智謀が劣っている。 

 二つには、武家には独りの将がいて、兵は皆その命令を重んじる。郷民には将がいない。将がいなければ、戦における進退も鈍重である。鈍重であれば、勝つことは少なく、負けることが多い。これは「異体同心」ではないからだ。 

  

▽ 武士として心得ておくべきこと 

 これゆえ、武家に生まれた者は、その道(すなわち、武術と兵法)を知らないことを大いに恥とすべきである。 

 武道を学ぶというのは、将は武の七書(注)を熟知して、謀を好み、勝てる見込みのある戦を失敗せず、上手くいかなければ、兵を引いて早く退き、敵の油断を突いて、味方の作戦を練ることを怠らないのを云うのだ。これを以て「表」とし、太刀打ち・弓馬・早業・力業・山岳の険難を走っても疲れない。これらを以て「裏」とするのだとされている。 

 また、兵は将の「裏」を以て「表」とし、「表」を以て「裏」とするのである。 

 武家に生まれた人は、その道に励まずして、何の役に立つというのか。実に恥ずかしいことではないか。その上、武道を知らないような士は、少なくとも家を失い、大なるは国を亡ぼす。心得ておくべきことである。 

 (注)七書とは、『孫子』、『呉子』、『司馬法』、『尉繚子(うつりょうし)』、『李衛公問対』、『黄石公三略』、『六韜』のことをいう。 

  

▽ 将たる者の宝「慈悲」「勇気」「智謀」 

 源義家朝臣が語られたことには、 

 「将のたしなむべきことは三つある。一には慈悲、無欲にして下民を憐れみ、二には勇気。三には智謀。この三つを兼ねている将は、古今に稀であろう」 

 ということである。実に義に適った言葉である。 

 将が自分のことだけを思って下民を育む心が少なければ、下の者は疲れて将を恨むようになり、下知(命令)しても従わない。将に勇気がなければ、一つの作戦の失敗により、勝てるような戦にも勝てなくなる。将に智謀がなければ、部下の善し悪しを見分けられない。また勝つべき道理をわきまえず、兵をうまく指揮・統率することもできない。「慈悲と勇気と智謀」、この三つを知ることが、将の宝であらねばならない。 

 武家に生まれた者が、その道を知らなければ、郷民と同じである。 

 また、諸国から寄せ集めた軍勢を率いて戦に赴(おもむ)くのは、兵としてはあまり期待できないが、郷民よりはましであろう。誰もが武家であるからには、おそらく合戦のやり方も知っているからである。それでも、昔から代々仕えてきた将ではないので、将の下知を重んじない。重んじないので、軍の進退が鈍重になる。このことから、あまり期待できないのである。 

  

▽ 寺の法師や駆り集めの兵では、赤松勢と戦えず 

 三井寺法師は、軍というものを全く理解していない。郷民とほとんど同じであろう。あの寺の法師らは、近年は武術を習っており、その点では郷民に勝っている。しかしながら、法師というものは自分勝手に行動し、ぬしろ郷民よりも将を侮るものである。このように、それぞれの優劣を入れ合わせれば、法師も郷民も大差ないのである。 

 その他は諸国から駆り集めた兵なので、(佐々木時信らが率いる)7千余騎は、赤松の兵1千騎にも値しないのではないだろうか。これらを以て円心を退治しようとするのは、「卵を以て石を砕こうとするに等しいものだ」と云われていた。 

  

(「武家と庶民の違いは何か」終り)

2014/9/26