【第24回】 泣き男の謀(はかりごと)
▽ ごあいさつ 

 皆様、こんにちわ。日本兵法研究会会長の家村です。 

 今回は、特異な技能を有する人材を登用し、活用することで見事に敵をだまし、京都を奪還した楠木正成の智謀についてご紹介いたします。 

 ここには、現代社会にもそのまま通用する「人を活かして使う」ノウハウが書かれています。 

 それでは、本題に入りましょう。 

  

【第24回】 泣き男の謀(はかりごと) 

(「太平記秘伝理尽鈔巻第十五 将軍都落ちの事付薬師丸帰京の事」より) 

  

▽ 楠木正成、泣き男を扶持(ふち)する 

 その昔、正成が千早にいた頃、松原の五郎という正成の家の子がいた。ある日、松原が正成のもとに来て申した。 

 松原 「侍を一人養ってくださいませんか。」 

 そこで楠木が問うた。 「その男には何か芸があるか。」 

 松原 「芸と云うものはございません。ただ、よく泣きます。」 

 楠木 「泣くとはどのように・・・。」 

 松原 「今すぐ一泣き泣いて見せよと所望すれば、即座に涙を流し、哀れにも、大げさにも泣きます。」 

 正成 「それこそ世にも稀なる芸である。そのような事も役に立つものである。」 

 楠木はすぐにその男と対面して、 

 「泣いて見せよ。しかと聞こう。」 

と云えば、さめざめと涙を流して泣いた。実に珍しいことではないか、とのことでその男を雇ったのであった。世の人はこれをあざ笑って、 

 「楠木殿ほどの人でも、時々は子供じみた事をするものだ。あの泣き男が泣くのを一芸だとて扶助されたそうだ。泣くのがどうして芸といえるのか」 

と云えば、周りの人も同じくあざ笑って、 

 「芸といえば芸かもしれない。あの泣き男が泣くのを聞いたなら、我々もまた、泣いてしまう。自分だけが泣くのはよくあるけれど、近くにいる人まで泣かせるのは、不思議な芸であろう」 

と云う。また、ある男は、 

 「我が身一人で泣くのさえ忌々しいのに、人まで泣かせるのは、何とも不吉である」 

と云うなど、それぞれに物申したけれども、楠木は少しも聞き入れず、このように言ったのであった。 

 「何事であろうとも、人より勝れている事をするのは、皆芸である。必ず役に立つことがあろう。その上、目が見えない人や口がきけない人であっても、分に応じて世の中で役に立つ仕事ができる。ましてや人より勝れた芸を持っているのであれば、なおさらのことである。」 

  

▽ 義貞に語った「京都奪還作戦」構想 

 その後、建武3(1336)年1月、足利尊氏が率いる反逆軍が山崎で官軍を打ち負かして京都を占領した。官軍は比叡山の麓、琵琶湖南西岸に位置する坂本まで退き、ここに仮御所を置いた。 

 一回目の京都奪還戦では、新田義貞軍が単独で京都市街の奥深く突進したことにより、反撃されて失敗したことから、二回目の奪還作戦では足利軍を京都から追い出した後、深追いをせずに全軍が坂本へと退却した。これを「正月二十七日合戦」という。 

 この合戦があった日の夜半、坂本で楠木正成は新田義貞の宿所を訪れて対面し、「周りの人を除けてください。申したいことがございます」と云って、義貞にささやいた。 

 「私が明日、僧を仕立てて、今日の戦場にて泣かせましょう。そうすれば、足利勢はあやしんで何ごとかと問うでしょうから、その時、僧にこのように言わせるのです。 

 『私は楠木殿と縁の深い僧でございますが、昨日の戦(いくさ)で楠木殿は矢に当たって討たれてしまったそうです。』 

 そして、 

 『新田殿・北畠殿も討たれてしまいました。御供養のため、その死骸を探し求めております』 

と申すようにして、さらに常々、楠木が情け深かったことなどを言い語って歎(なげ)くようにせよ。残りの僧たちも共に歎くようにせよ、などと申し付けておけば、日本無双の泣き上手であるので、あわれに泣くことでございましょう。そうすれば、人の心の愚かさゆえ、これを聞いた足利軍の者は、忠節顔をして尊氏兄弟に語ることになります。尊氏兄弟は、凶事や不浄などに敏感で、たいへん愚かな人なので、事実と思ってこれを配下の者たちに言って聞かせ、おごり高ぶることでしょう。 

 また、夜半を過ぎる頃に、下部たちに申し付けて、松明(たいまつ)の二、三千本も灯しながら連れ立って、四方の嶺の道々へ向かわせます。尊氏兄弟は東寺からこれを見て、 

 『さあ、主だった武将らが死んだことで、官軍の者たちが落ちて行くぞ。これを討ち留めよ』 

と言って、所々へ兵を分けて遣わすに違いありません。こうして「もぬけの殻」となった本拠地へ官軍が一手になって押し寄せたならば、尊氏兄弟を思いどおりに討つことになりましょう。」 

 これに対して義貞が応じた。 

 「素晴らしい謀でありますな。そうは云えども、その泣き男一人だけが泣いたとして、それ以外の僧は何ゆえに泣くことがあろうか。何とも不可解なことではないか。」 

 そこで楠木が、「いやいや、辺りの人も彼が泣くのを見たならば、自ずからあわれになって、皆泣くのです」と応じると、義貞は、「不思議な男を御扶助されたものだなあ」と驚きながら言った。 

 楠木は、諸大将たちにもこのことを談じてから宿所に帰り、泣き男にこのことを申し聞かせ、「この謀が成功したならば、貴殿に所領を一つ与えよう」と告げた。 

  

▽ 「泣き男の謀」を準備 

 正成は、「僧の作法を貴殿は知らないであろうから」とのことで、坂本に近い里に律僧がいるのを訪ねて、深々と頭を下げて頼んだ。しかし、この寺の僧は、「戒法に背くことでございます」との理由でこれを受けなかった。そこで、楠木はこの僧をすぐに押し込めて、しばらくの間、自分の宿所に留め置いた。これは、謀について敵側に漏れるのを防ぐためのやむを得ない処置であった。 

 次いで、和邇(わに 滋賀県大津市志賀町和邇)の辺りに律宗の寺があったので、矢尾の別当を遣わして、密かに頼ませた。 

 矢尾 「楠木が死んでしまいました。死骸を引き取って、密かに葬儀を行いたいのでございます。」 

 この寺の僧は、本当のことだと信じてすぐにこれを引き受けたのであった。泣き男は大いに嘆いて、その場で本結(もとゆい)を切って僧になり、その律僧の弟子になった。 

  

▽ 「泣き男の謀」を実行に移す 

 人目につかぬようにしながら3〜4人にて、昨日の戦場に到着した。泣き男が道の途中で僧に語っていたのは、 

 「新田殿も討ち死であるとも云われておりますし、重傷を負われたとも云われております」 

と泣く泣く語りながら行くので、僧たちも 

 「嗚呼、日本の名将として知れ渡っておられたものを・・・」 

と云っては、何とはなしに袖を濡らしたのであった。 

 そうして戦場に至って、泣く泣く死骸を捜していると、昨日の敗軍(足利軍)の者たちにも主が討たれ、親が討たれた者が多かったことから、死骸を探し求める者が多くいた。 

 その泣き男が何とも哀れに、人並外れて泣き求めていたので、はじめは怪しむ者も多かった。そこで、「むやみに隠すようなことでもあるまい」と、泣く泣く楠木らが討たれてしまったことを語りだすと、聞く人は皆、涙を流したのであった。 

  

▽ 正成らの死を信じた足利軍 

 このことはすぐに、尊氏の聞くところとなり、近衆の者たちが偽って死骸を求めるようなふりをして、泣き男にこのことを問うたのであった。泣き男がことの詳細を語ると、問うた者も実にあわれに感じて、涙を流したのであった。 

 「捜したけれども、それというような死骸もない。日は暮れてしまった・・・」 

とのことで、僧を先に帰らせ、泣き男こと杉本左衛門はあとに留まって、京中に入り、敵の様子を見て帰ろうとしたが、まずは正成の首、義貞の首として、よく似た顔つきの頭を二つ見つけて獄門にかけ、札を添えて「新田左兵衛督義貞」、「楠木河内判官正成」と書き付けておいたのであった。泣き男は、自分でも実によくできたと思ったので、矢立てを取り出し、 

 ― これはにた首なり。まさしげにも書ける虚事哉 ― 

と秀句(しゃれの句)を書いて、これを札に書き付け、亥の刻(午後10時頃)に坂本に帰ってきた。 

  

▽ だまされた尊氏ら、丹波・摂津へ敗走 

 杉本左衛門がこれらのことを報告すると、正成は「それは、よく成し遂げたものだ」と云って、松明(たいまつ)の謀を実行に移した。翌29日の卯の上刻(午前5時頃)までに多くの松明が四方へと流れていったが、それだけでは心元無いと思ったのであろうか、さらに足軽の兵を100人ほど選って落人にさせ、瀬田と大原へ50人ずつ分けて遣わしていたところ、方々に足利方の伏兵が在るとの報告があった。 

 これにより、足利方が後醍醐天皇勢(官軍)の比叡山からの撤退を信じていることがはっきりしたので、ただちに諸大将が一手になって西坂(比叡山西側の坂)を下り、八瀬(比叡山西麓、京都市左京区)〜藪里(やぶさと 左京区一乗寺の辺り)を通って京都へと攻め寄せたのであった。 

 先陣は千種忠顕・名和長俊らの軍勢合わせて1500余人、二陣は北畠顕家の卿7000余騎、三の陣は洞院実世の1万余騎、四番は新田勢1万余騎、五番は楠木勢3500余騎、これらが卯の刻(午前6時頃)に二条河原に押し寄せたのであった。 

 尊氏は眠い目をこすっていたが、味方が驚き騒いでいるのを見て、「これは何事か」と言うと、直義が、「敵襲だ。敵が攻めてきたぞ」と叫んだ。 

 尊氏 「さては、昨日は謀られたのであったか。味方の軍勢は少ない。戦ったところでこちらが不利である。」 

 あわてた足利兄弟は、敵の旗さえも見ることなく逃げ出して行き別れ、尊氏は丹波へ、直義は摂津の地へと落ち延びたのであったが、総大将を失った諸軍勢は散々な目に遭い、数えきれぬほどの者が討たれたのであった。 

  

(「泣き男の謀」終り)

2014/10/31