【第26回】 飯盛城攻略作戦 その2
▽ ごあいさつ 

 皆様、こんにちわ。日本兵法研究会会長の家村です。 

 今回は、前回に続く「飯盛城攻略作戦」の二回目、「敵を知る」楠木正成の優れた情報活動についてです。 

 前回、楠木が行った「飯盛の敵に米100石・酒樽50荷・肴10種を贈った」という懐柔策につきまして、『太平記秘伝理尽鈔』の口伝聞書集である『陰符抄』という本では、これを「ももに首」と称して、次のように解説しています。 

 ももに首と云う理由は、「首」は身体の内でも特に重要な箇所である。それに比べれば、「もも」は軽い箇所である。その軽い箇所である「もも」を敵に与えて、重要である首を見方の方に取るということである。兵糧や酒・肴といったものを敵に贈るのは、少しの損であるけれども、味方は終始を通じての勝ちを取るのである。これは孫子の「始計」が意味するところである。敵と我の利益を計り比べて、小さな利益を敵に与えて、大きな利益を我が方に取るのである。敵にも小さな利益を与えるのが秘訣である。丸勝ちは成功しないものである。 (以上、『陰符抄』再三篇より) 

 それでは、本題に入りましょう。 

  

【第26回】 飯盛城攻略作戦 その2 

(「太平記秘伝理尽鈔巻第第十二 安鎮国家の法事付諸大将恩賞の事」より) 

  

▽ 再び「ももに首」を装って、敵に近づく 

 宮中の法会が終了し、やっとのことで、「それでは、正成は討手として向え」との仰せがあった。 

 楠木は500余騎で摂津の国を経て、河内へ下ったのであるが、同時に飯盛へ恩地左近太郎を再び使者として遣わし、次のように言わせた。 

 「この度の討手のお役目を、正成こそが仰せ付けられました。弓矢取る身の習いとて、親をも捨て、君主の命令に従うのは、その昔からの法にてございますれば、好むと好まざるとにかかわらず、貴殿らと戦うほかありません。そうではありながら、公家と武家が仲直りして協力し合うならば、我らにも、貴殿らにも、国土のためにも望ましい事でしょう。和睦を願われるのであれば、この正成が御使いとして申し伝えましょう。また、京都からの土産を持たせてまいりました。」 

 そして、樽酒十個を贈ったところ、敵の大将・憲法僧正を始めとする敵将は、 

 「仰せのこと承りました。どのようにすべきかを老中と相談してから、お返事いたしましょう」 

と云って、これらの贈物を返したのであった。 

  

▽ 恩地の情報収集 ― 飯盛城を偵察 

 恩地はこの往復の間、高い場所に上って、飯盛城を偵察していた。城中の人々の陣屋を見ると、100軒をひとかたまりとして、それらが12〜13ほどあった。 

 「所領を持ちながら出陣した人々であれば、1万2〜3千の兵になるであろうか。この一、二年は国を捨て、所領を取り上げられ、やむを得ず出陣した人々であれば、陣所の合計よりも兵は多くいることであろう。それでも、1万5千よりも多いことはないであろう、・・・・」 

 このように敵兵力を見積もっていた。この間に楠木は、千早に帰り着いていた。 

  

▽ 恩地の情報収集 ― 敵方の旧友と接触 

 恩地は、昔から親しかった武田十郎兵衛を訪れて、 

 「予想外に兵が多くおられる御陣でございますなあ。こうして見たところ、合わせておよそ3万もおられましょうか」 

と語りかけると、武田は何とも嬉しそうに語った。 

 「そのとおりでございます。この陣に兵は4万余りはいるに違いないと、人々も申しております。楠木殿が明日、ここへ向われたとしても、手痛い損害を避けられない合戦となりましょう。」 

 そこで恩地は、小声になって、 

 「実に驚き入りました。正成がここへ向うといたしましても、兵は1万には足りないでしょうから、中々城の近くに寄せることもできないことでしょう。他の国の軍勢を味方に付けるような方策もないので、由々しき事態になるものと思われます。ただし、最終的には諸国が朝廷に随うであろうことは間違いありません。貴殿とは気心知れた仲であるがゆえ、このように申すのです」 

 と言ったならば、武田は 

 「頼りない武運とは誰もが思いながら、弓矢取る身の習いとして、義によってこそ、このように思い立ったのです」 

など、細々(こまごま)と語った。恩地は、 

 「それにつけても、和睦のこと、少しでも早くなされるのがよいでしょう」と申して帰った。 

  

▽ 恩地による敵情分析 

 恩地は正成を訪ねるため、急いで河内へやって来た。恩地が千早で、このことを楠木に語ったところ、正成が 

 「さて、どのように思われましたか」 

と尋ねた。恩地が云うには、 

 「武田は敵方の大将の一人であります。昔から意思が弱いことは知っておりましたが、数年間会っておりませんので、人はどのように智恵が発達することもありますれば、と思いまして語ったのでございます。 

 先ず、私が敵の兵を1万5千と見ながら、『3万余りもおられるのでしょうか』と申したのを聞いて、嬉しさを隠せずにいたのは、いかがなものでしょうか。私のことはずっと前から知っていたのですから、よもや兵の多少を見誤ることはないと思うべきでしょう。にもかかわらず、私が1万5千の兵を3万と言ったのを、いかなる謀であろうかと疑うこともなく、嬉しそうにしているのは、智が浅いからです。彼が大将として向おうとする所へ、謀により一撃を与えるならば、簡単に撃滅できるものと思います。 

 また、敵の陣を見ると、山や谷を選ばず、飯盛山周辺の荒れ乱れた集落のように陣を敷いているので、忍びを入れて一方から火をかけてば、よもや堪えられますまい。一勢一勢の陣がきちんと区分されていないので、忍びの兵も簡単に潜伏できましょう。 

 外側の構築物につきましては、塀さえもこしらえず、芝もきちんと積み上げておりません。芝の上には一重の貫(横木)がございますが、過半が崩れ破れております。木戸の外から忍びが入りこむのは容易いことです。夜回りの番もおそらく置いていないものと思われますが、それでも白昼に攻めることができる地形ではございません。岸が高く切り立っております。 

 さらに諸兵卒は皆、貧しいものと思われました。財貨をちらつかせて招けば、必ずや逆心を抱く者が出てくることでしょう。大将は僧正のお坊さんですので、戦(いくさ)の勝敗は恐るに足らず、でしょう。また、兵は皆、自分にとっての一大事とは思っていない(あまり緊張感がない)様子でございました」 

とのことであった。 

  

▽ 楠木、恩地の情報活動を賞賛 

 正成は、つくづく聞いて、 

 「よくぞ、そこまで見てこられた。忍びの者たちが申すことと少しも違わぬぞ」 

と笑ったのであった。そして、すぐに 

 「十市(とおちの)左兵衛助が陣を堅めている平群(へぐり)には、どれほどの敵兵がいるのか」 

と問うたところ、郎従であった古市(ふるいちの)右衛門が申したことには、 

 「敵兵、およそ5千余りはおりましょう。諸兵の陣屋の数は、およそ400余りと見ております」 

とのことで、平群にある城の様子を詳細に語ったのであった。 

  

(「飯盛城攻略作戦 その3」へ続く)

2014/11/14