【第27回】 飯盛城攻略作戦 その3
▽ ごあいさつ 

 皆様、こんにちわ。日本兵法研究会会長の家村です。 

読者のH.Y様からのお便りをご紹介させていただきます。 

  

 20年ほど前にウクライナである老人から聞きました。彼の祖父は日露戦争の従軍者で松山に捕虜でいたとのことです。 

 祖父は思い出を語るごとに「マツヤマ」と言っては日本人の軍民あげての捕虜への立派な応対を語っていたそうです。 

 ウクライナもロシア帝国兵として外国へ遠征し、長い歴史の中ではロシア・西欧・トルコ・中央アジア・モンゴルから攻められ攻め返すという戦乱の歴史の中、日本こそが信用できる唯一の外国人であると。まさに楠公精神を具現した武の情けが遠い欧州でも生きている証拠を見たものです。 

 (私が直に特技とするロシア語で聞き、しかも外国人は大祖国戦争のドイツ兵以来だというような地方の当局の宣伝工作もしようの無いホテルの無いような農村での民泊での話でした。) 

  

 H.Y様、素晴らしいお話をありがとうございました。 

 本メルマガを通じて皆様もご承知のとおり、楠木正成とは常に、強く、正しく、賢く、そして優しく、己を捨てて公に尽くし、その生涯をもって「武の道」を見事に実践した人物でした。今を生きる私たちが、「手本」とすべき人なのですが、残念ながら学校の歴史教科書では、自由社などの数社を除き、ほとんど登場しません。なぜか、賊である足利尊氏ばかりが出てきます。・・・ 何か、間違っていますね。 

 さて今回は、前回に続く「飯盛城攻略作戦」の三回目です。それでは、本題に入りましょう。 

  

【第27回】 飯盛城攻略作戦 その3 

(「太平記秘伝理尽鈔巻第第十二 安鎮国家の法事付諸大将恩賞の事」より) 

  

▽ 楠木軍、夜襲に出陣 

 正成は、前日千早に到着して、翌日の午後8時頃には命令を下達した。 

 「今夜、敵陣に攻め寄せる。午後11時過ぎに、ここ千早城を出発する。舎弟の正氏が先陣となれ。正氏はこの正成が旗で指揮するとおりに行動せよ。和田和泉守(楠木一族)は後陣となって続け」。 

 正成自身は600余騎にて中の陣となった。正氏が800余騎、和田が800余騎、先陣と後陣とを合せて2300余騎にも満たなかった。志貴・恩地らの郎従が来て、 

 「どうしてこのような小勢で向われるのですか」と云うが、楠木は 

 「おぬし達・矢尾殿・私の手の者を集めれば、6千余騎はあるだろうから、あとのことは心配する必要がないようだ」 

とだけ言って出発した。 

  

▽ 各陣に案内者を配置して暗夜を克服 

 4月29日の夜は、一寸先も見えないほどの真っ暗闇であったことから、正成は 

 「これより平群(へぐり)へは山野があり、野原がある。先陣に遅れてはまずいので、先陣のことはいうまでもなく、後陣の和田殿へは、案内者を10人同行させているので、2人は先へ行け。3人は道の間違えそうな箇所があれば、そこに立ち留まって兵を通せ。残りの5人は前後を駆け回って道を知らせよ」 

と命じた。正氏の隊にもこのように処置した。正成の部隊についても当然のことである。 

  

▽ さらに道しるべを指示して万全を期す 

 そのようにしてなお、楠木は前後の諸隊に伝令を遣わして、 

 「もしも後ろに離れて行進経路がわからなくなった兵があれば、馬の足跡を道しるべにせよ。もしも左右に分かれる道の両方に足跡があれば、それらをよく見よ。古い足跡は土が固まっている。今通ったばかりのものは、上の土が軟らかい状態である。これが一つの目安である。 

 今夜は宵から曇りになるので、雨が降ることになれば、道の傍らの草の葉をなめよ。馬の蹴上げ(=馬が蹴上げた泥やほこり)をかぶっているだろう。また、両方の道の草の葉に蹴上げがあれば、通ってから時間がたっている蹴上げは、かわいて葉にこびりついているだろう。今さっきの蹴上げは水滴に浮いているだろう。これを目安にせよ。 

 また、草の深い谷や野であれば、太刀を鞘(さや)のまま高く上げた状態で、両方の道を一町(109m)行け。蜘蛛の糸が架かっている方の道へは行くな。しかしながら、これらは万が一のことであり、各軍には箒(ほうき)を10本ずつ持たせているぞ。道が分かれている箇所があれば、兵が通った方に立てておけと言ってあるので、それを道しるべにして、遅れた兵は来るようにせよ」 

と指示したのであった。何とも賢いことである。 

  

▽ 同士討ちを避ける合印と合言葉 

 夜襲で同士討ちを避けるための合印(あいじるし)は、物の具のわたがみ(鎧の胴を吊った、両肩に当る幅の狭い部分)に赤い布を八寸(24cm余り)に切って付けた。また、合言葉は、「誰れぞ」と言えば、「勇」と答えよ、と詳細に指示を与えており、松明(たいまつ)をとぼすことなく行動した。 

  

▽ 忍びの潜入と松明 

 平群に到着したのは、午前5時頃であった。正氏の兵の中から、木子兵太(きのこのひょうた)という忍びを遣わした。敵陣の備えは粗雑であり、忍びが簡単に潜り込めたので、すぐに100余騎を徒歩兵にさせて、陣所へ忍び込ませたのであった。 

 正成は、正氏の陣から六町(約650m)退いて兵を備えた。和田は、正成の陣から二町(約220m)ほど退いて陣を堅くした。楠木は諸軍勢に松明を、一人当たり3個持たせていた。そして、足軽の兵を80余人ずつ、和田の陣の後ろの山々の嶺という嶺に密集した林のように、松明の200〜300をひとかたまりにして、あちらこちらにとぼしたのであった。 

 楠木の陣からこれを見ると、天が輝き、闇の夜が昼に変わったようであった。 

  

▽ 平群の敵陣を不意急襲 

 そこで正成が陣から太鼓を打つと、正氏勢が時の声を発して敵陣に乱れ入った。 

 敵陣の中にいた兵は、昨日今日まで正成は未だ都にいるものと聞いていたので、今こうして攻め寄せてくるとは思いもよらなかった。 

 「これは何事だ」 

と周章狼狽していると、正氏の兵が、 

 「あの正成がこちらに向ってくるぞ」 

と声々に叫んだ。平群の軍勢が向かいの山を見れば、数えきれぬほどの松明があった。気が動転して戦う気力もうせたところへ、正氏の500余騎が切り込んで戦った。 

 あっという間に数えきれぬほどの者が討たれた。 

  

▽ 多門丸(正行)、戦場に到着 

 また、正氏が切り込むと同時に、あらかじめ潜入させていた兵が数箇所に火をかけて、5〜10騎ごと前に敵がいれば、その後ろから攻めて、(正氏勢と)はさみ討ちにしたので、敵陣はたちまちに敗れて、数えきれぬほどの者が討たれた。 

 正成は、先陣の兵と和田の兵とを乱して敵を追わせた。軍が散らばってしまったので、自分は敵の城の右にあった高い嶺の上に登った。城には田原・勝田に200人を指揮させて入れ、これを守らせた。 

 前もって取り決めていたとおり、敵を一里(約3.9Km)追ったところで軍勢は引き返して、それぞれの陣を堅くしていたところへ、おそらく楠木が申し付けていたのであろう、8歳になる子息の多門丸(正行)を大将として、志貴右衛門・牲川(にえかわ)・西川ら宗徒の者どもが2千余騎で父・正成の陣に到着した。 

 この勢もまた、三手に分けていたのであった。先陣は志貴の600余騎、中陣は多門丸の1千余騎、後陣は西川の600余騎であった。 

 それぞれが午前3時過ぎに千早を出発して、午前7時頃に平群に着いた。その道のりは六里(約23.5Km)であったが、父・正成は、多門丸の手を取って、 

 「ずいぶん早く来れたなあ。そなたは子供ながらも、天皇の御役に立てる人ではないか」 

と、涙を流したのであった。多門丸が少しも臆した気色なく、物の具を身につけ馬に乗って来たので、このように褒めたのであった。 

 後に帯刀正行(たてわきまさつら)といわれたのが、この多門丸のことである。 

  

▽ 敵に和睦を求めた楠木のねらい 

 後になって足利高氏と新田義貞が、この合戦について正成に問うことがあった。正成が語って云うには、 

 「あらかじめ和睦をなそうとしたのには、先ず多くの謀がございました。正成は都にあり、敵は大勢でした。河内に乱入しようとするのは疑いありません。万が一にも若い者たちがそこつに戦って負けたならば、後日に戦をやりづらくなるので、和睦を成したのです。これが『柔はよく剛を制する』という謀です。 

 また、敵は寄せ集めの武者です。これは次第に衰えていく兵です。味方は正成の数代の郎従です。正成は少しも非道を為しません。今、諸国が家人を憐れんでおられてとしても、正成ほどの温情ではございますまい。ましてや亡びた鎌倉幕府の残党などに、どうして郎従たちが私に替えて付き従うことがあろうかとの判断から、各自で敵中にいる知人との友好関係を持たせたのです。 

 たとえ敵が千早に来たとしても、私の城へ攻め寄せることは思いも寄らないこと。また、敵が要害に陣取るのを偵察したところ、今攻め寄せれば、謀はいくらでもできるとの思いから、このようにいたしました。正成が考えたとおり、友好的にふるまってこそ敵陣のことも、智謀の士(恩地などを指す)を遣わして見てくることができましたので、やがては敵を討ち亡ぼしたのです。 

 とにかく敵のことを知らなければ、謀は成功しないものです。 

  

▽ なぜ敵を急襲し、多門丸を来援させたのか 

 また、大急ぎで出発いたしましたが、千早でのんびりと敵情報告など受けていれば、策略ではなく本当に敵に通じる者が出ないとも限りませんでした。友好的なふりなどしていない普段の敵でございますれば、あまり考慮する必要はございませんが、友好的なふりをして通じている敵でございますればこそ、このように急いだふりをいたしました。 

 また、多門丸に申しつけて、後から兵を到着させたのは、元々敵が大勢であっただけでなく、もしも翌日、敵が城に戻って来て攻めてきたならば、味方は終日遠路を越えて疲れ、しかも小勢でございますれば、戦いも危うくなろうとの思いから、新手の戦力として多門丸には申し付けておりました。 

 そもそも遠い所から夜中に寄せて戦い、それに勝ち誇っていた兵が、疲れて気を抜いたところに攻め寄せれば、勝てるものでございますぞ。敵はよもや(こちらが)気づいていないだろうと思って、攻め寄せることでしょう。 

 その日は夜襲を終えて、丸一日軍勢を休ませていると、大和国から軍勢が数多く集まって、1万ほどになりました。次の日には、これらの軍勢をあちらこちらに向わせたところ、大和国では敵がどこへ行ったのであろうか、一人もおりません。そこで、河内のことが心配になって、所々の城に兵を籠らせておき、私は河内へと帰ったのでした」 

とのことであった。これらを聞いた諸将は皆、 

「楠木の謀は、凡慮の及ぶところではない」 

と賞嘆されたのであった。 

  

(「飯盛城攻略作戦 その4」へ続く)

2014/11/21