【第32回】 馬を盗んだ男の処断
▽ ごあいさつ 

 皆様、こんにちわ。日本兵法研究会会長の家村です。 

 今回は楠木正成が平時に行った領民統治の具体的な事例を紹介いたします。 

 それでは、本題に入りましょう。 

  

【第32回】 馬を盗んだ男の処断 

(「太平記秘伝理尽鈔巻第第十六 正成兄弟討ち死にの事」より) 

  

▽ 病母をかかえた貧しい男が馬を盗む 

 楠木正成が湊川で散った一年前の春の頃、正成が国へ下っていると、河内平岡の郡(こおり)(現在の東大阪市。旧枚岡市域)から、「盗人である」とのことで捕えられて来る者があった。正成は、この男と道で行き遭った。ことの子細を問うと、馬を盗んだとのことであった。正成が 

「どうしてそんなことをしたのか」 

と問うたならば、この者には一人の母がいた。発病していたので、医師を招いて、薬を服用したところ、医師が云うには、 

「米二石をいただければ治そう」 

とのことであった。これを約束して治療してもらうと、病気は少し癒えてきた。この者は貧しかったので、米二石を持っていなかった。医師はしきりにこれを請求して、まだ病気が治っていないのに薬を与えなかった。この男は親しい人たちに向けて米を求めたところ、ある程度は頼ることができて、一石だけは何とかして支払うことができた。医師が云うには、 

「お前は貧乏人である。約束していた米のあと一石を調えなければ、良薬は与えられない」 

とのことだったので、近傍の三宅の郷(現在の八尾市内)に忍び込んで馬を盗み取り、平野(三宅郷の西。現在の大阪市平野区。交通の要衝)の市場で米三石で売った。一石を医師に支払い、一石を先ほどの借主に返済した。 

 しばらくして、馬の主がこの馬を見つけてこれを尋ねたところ、この男が盗んだことが発覚した。 

  

▽ 事実を確認して、慎重かつ公正に処断 

 正成は、医師を呼んだ。千早に帰って詳しく尋ねると、あの男が云ったとおりであり、その母は子を思うあまりであろうか、病気が再発してすでに死にそうである。正成が云うには、 

「馬を盗んだのは、重罪である。命を助けるべきではない男である。が、その前に、どうしてここまで貧しい身となったのであろうか、それが知りたい。教えてくれるならば正成が公約を赦そう。公納十のうち二つを免除しよう。どうであろうか」 

とのことであった。傍らにいた人が、 

「去年、あの男は半年間も足を痛めまして、田畑の耕作は少ししかできませんでした。塩干しの魚などを売って暮らしていた者でございます」 

と申した。正成は、 

「そのように不運な者であったか。半年間、体を煩(わずら)って仕事に就けなければ、貧しくなるのも当然のことであろう。馬の主は、馬を取り返したのであるから、あの男の命を私に預けよ。 

 馬を買った者には、五石の米を与えることにすれば損はないであろう。馬の主にもまた、米二石を与えよ。これはしばらく馬を使えなかったことの損失料である。また、買い主も代わりの馬を買うまでは、馬が無くで不自由するので、二石の米は利息である。元の馬の値段は三石なので合計して五石である。」 

  

▽ 諸悪の根元は貪欲な医師と判断 

 続けて楠木は言う。 

 「医師は無道である。それほどの不運な者から二石の米を取るということに何の道理もない。医師は慈悲を専らとするとさえ云われるものだ。そうであれば、慈悲があるならば謝礼がなくても与えるべき薬ではないのか。代価を調えられない者には、そうあらねばならないのではないのか。医師がはなはだ貪欲であったがために、国に盗人が出来てしまったのであるぞ。 

 『貧しいがゆえに盗むのは罪が浅い』とその昔の法にある。しかし、盗人を罪としなければ国法ではない。あの男の小さな家を取り壊して焼き捨てよ。」 

 そして、 

「母に孝のある男である。新たな里へ往かせて田畑をも作らせよ。家を作ってやれ」 

と云って、さらに米十石をお与えになったのである。 

「医師は無慈悲な人である。貪欲な人が国にあれば、人を損ずるものであるぞ。そうだ。私の分国には好ましくない」 

とのことで、河内・摂津・紀伊・和泉の四箇国から追い払ったのであった。 

 楠木は、少しでも欲深く邪な者であれば嫌い、正直に人の道を守って無欲である者を賞したのであったという。この他にも細々とした事までも、このように理非を論じ定めたという。 

  

▽ 地域の行政責任者の責任を追及 

 平岡の郡司・宇作美五郎を呼び寄せて申したことには、 

「この度の事は、貴殿の郡政に怠りがあったと思われる。そもそも郡司は郡の人民の歎きを承知してこれを止め、ご自分の手に余るような事があれば、私に申されるべきであろう。 

 貧しい者を救うことこそが第一である。民に飢えている気配が無いような善政こそ欲することであるのに、このように不運な者の病であれば、なぜ下司(げし=下級者)に命じて救われなかったのか。下司もまた怠りがあった。下司の怠りは貴殿に怠りがあるからだ。 

 貴殿はおそらく何も知られずにいたのであろう。これは皆、貴殿の怠りである。貴殿の怠りは、正成の怠りそのものではないか。罪は一人に帰すと云うことがある。貴殿の怠りは、そのまま正成の怠りとするのである。 

 かつては貴殿もそれほどまでに怠りがあるような人ではなかったが、驕りがあったからであろう。大いに悪しきことではござらぬか。郡の司となる者に少しの誤りがあっても、大なる怠り事ができてしまうものでござろう。以前の善きことからすれば、大いに変わり果ててしまったものだ」 

とのことであった。宇佐美は面目を失い、しばらくは出仕を止めていたものだという。 

 これらは皆、楠木の智仁勇のなせる業である。 

  

(「馬を盗んだ男の処断」終り)

2014/12/26