【第34回】 志貴右衛門と湊川の戦い(後段)
▽ ごあいさつ 

 皆様、こんにちわ。日本兵法研究会会長の家村です。 

 今回は楠木正成の最期を飾った「湊川の戦い」の後段です。 

 早速、本題に入りましょう。 

  

【第34回】 志貴右衛門と湊川の戦い(後段) 

(「太平記秘伝理尽鈔巻第第十六 正成兄弟討ち死にの事」より) 

  

▽ 志貴の先陣、猛射にひるまず突入 

 先陣となった志貴右衛門が300余騎にて陣形を維持しながら攻めかかったところ、高師直(こうのもろなお)の精兵に射立てられて多くが討たれたが、少しもひるむことなく敵に接近した。師直が「兵を乱すな」と命じたが、志貴の軍勢が師直の軍勢3千余人の中央に整斉(せいせい)と切り込んでいくと、敵陣はたちまちに騒がしくなった。そこへ楠木正成が馬に打ち乗り、70余騎が叫びながら斬り込んだ。さらに、弟の楠木正氏が徒歩兵を連れてその後から攻めかかると、師直の兵は持ち堪えられずに敗走した。 

 次いで仁木・細川の大軍勢がバラバラに攻めかかってきたので、楠木勢はこれらを四方に追い散らした。 

 正成は分散した兵たちを一箇所に集めようと旗を打ち立て、太鼓を打った。死なずに残っていた者は、500余りであった。軽傷を負った者の多くは、敵と相討ちして死に、重傷を負った者は自害していた。正成は兵が疲れているのを見て、湊川の北の民家に入り、軍勢の喉の渇きを癒(いや)して休ませながら、敵が攻めて来るのを待った。 

 やがて直義が敗軍1万余騎を率いて、尊氏の先陣と合流して押し寄せて来たので、楠木勢もまた出撃し、午前7時頃から午後1時頃までに16回戦って、その度に大敵をかけ乱したが、後に続く味方は無く、その数は73人にまで減った。ほとんどの者が負傷していた。 

  

▽ 竹童丸を河内へ帰す 

 楠木は先ほどの民家に戻り、しばらく息を休めて心静かに自害しようと思っていると、門を激しくたたく者があった。兵たちが「誰であるか」と問うと、 

「尊氏からの御使・次賀壱岐守(すがのいきのかみ)である」 

と申したので、正成の居場所近くまで通した。楠木一族の平井五郎は負傷していなかったので、「私が応対しましょう」と出ていって会った。 

 次賀が「楠木殿に対面して申したいことがございます」と申したが、正成は会わなかったので、次のような尊氏の言葉を伝えた。 

 『新田の人々が敗れたにもかかわらず、小勢を以て当家の大勢を毎度討ち散らされたのは、前代未聞、武勇の誉れです。また、尊氏と正成はかつて朋友でした。どうして無情にも討つことができましょうか。これは敵を懐柔しようという策略ではありません。今日の武勇に感動し、かつての交友を忘れていないということです。万一にもこちらの味方になることなどあり得ないのであれば、降参せよとは申しません。味方の兵を引かせられ、命を全うしてとくとく河内へお帰りください。』 

 正成は笑いながら、 

「命生きながらえようと、囲みを打ち破って通るならば、相手になる者などおらぬ。尊氏には『仰せられること、喜んでおります』とでもお伝えくだされ。そうではあるが、童を一人故郷へ帰すことにいたそう」 

と言って、竹童丸(たけどうまる)という18歳の少年に、彼も軽傷を負っていたが、 

「河内へ帰って合戦の様子を語れ」 

と命じた。 

  

▽ 楠木の軍勢、全員が自害 

 正成が腹切しようと鎧を脱いで見ると、切り傷が11ヶ所あった。他の72人の兵も皆、無傷の者はほとんどいなかった。楠木一族と郎従らが六間の客殿に二列で並んで、声を合わせて念仏を十遍ほど唱えた。 

 正成は、正氏に向かって、 

「人間は死ぬ間際に何を思うかによって、来世の生の善悪が決まるという。九界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩)のいずれに生まれたいか」 

と問うた。正氏は明るく笑いながら、 

「七度までも人間に生まれ、朝敵を滅ぼしたいものです」 

と答えると、正成は嬉しそうに 

「罪深い思いではあるが、私の願いも同じだ。では、さらば。再び人に生まれてこの本懐を遂げよう」 

と約束し、兄弟刺し違えて倒れた。大楠公・楠木正成、享年四十三。 

 一族16人、郎従ら50余人が一斉に腹を切った。菊池肥前守の使いでその場に居合わせた菊池七郎武朝とその郎党も自害した。 

 楠木の家子である橋本八郎と和田五郎は、これらを見届けてから、楠木兄弟の首を取り、敵にこれを渡した。高師直の子である高宗継が、涙を流しながらこれを受け取り、 

「あなたがたは生きてくだされるのか」 

とたずねた。橋本と和田は、 

「情をかけないでいただきたい」 

と云いながらすぐに引き返し、正成らが自害した場所で 

「おのおのが自害された跡を残すのは見苦しい」 

と家に火を懸け、二人で刺し違えて炎の中に倒れた。この二人は負傷していなかったので、正成にこの役目を命ぜられていたのであろう。 

  

▽ 君は体、臣は影 

 一方、故郷に帰った竹童丸は、合戦の一部始終を詳しく語ってから、涙ながらに申した。 

 「亡くなられた殿には『最後まで御供いたします』と幾度も申したのに、『人々の討死がどのようであったか、志貴殿が何よりも勝れて勇猛であった様子も語れ』と命ぜられ、それを拒否できずにこうして参りました。殿には『やがて追いつけて参りましょう』と約束いたしました。皆様、止めてくださるな。」 

 親しい人々は、 

「当代の殿であられる正行(まさつら)様がまだ幼いのであるから、御仕えになり、御奉公いたされよ」 

と口々に説得した。竹童丸は、 

「そこまで仰せになるのであれば、従うしかありません」 

と言ったものの、手紙を書き置いて、夜中に腹をかき切って死んでしまった。 

 人々は「君は体、臣は影なり」という教えを、今ここに思い知らされた。正成が常に人としての道を踏み行ったので、郎従も皆が義を重んじたのであった。 

  

(「志貴右衛門と湊川の戦い(後段)」終り)

2015/1/16